自分ノート

~自戒と教訓の旅~

【感想】夏目漱石「こころ」

長くなったのでブログに書きます
 
夏目漱石「こころ」上、私と先生との出会いと交流。丁寧な情景描写及びその表現から伝わる物語の世界観に自分自身が入り込める感覚がとても心地良かった。学生である私が、年の離れた先生をどこか魅力的に感じ取り、またその隠された内面を見てみたいという好奇心に共感した。また、私と先生が二人で共有し合う時間そのものが、とても美しく思えた。だがしかし、一刹那に片鱗として見せる先生の影というものには、とても注目されるとともに、私と先生との関係の維持と先生の影を覗き込むという事のどちらを取るか、その間で揺れ動く感情そのものの感覚がとても好かった。そして、その影の部分に一体何があるのか知った時、先生の過去の言葉が思い起こされ、どういった思いでその言葉を発したのだろうかと想いを寄せる。
下。恋によって先生は、ある意味では超理性的になったのだろうか。恋のことになると先生が、その本性を理性で覆いつつ剥き出しているシーンはとても印象的であった。先生がKに向かって「精神的に向上心のないものは馬鹿だ。」という言葉を二度も繰り返したり、遺書に自分の事が書かれていないか確かめるその姿から見えてくる先生いや、人間そのものの形を顧みた上での
 
しかし私の動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。叔父に欺かれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづく感じたことには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間がどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。(p.282 L10)
 
が本当に胸を打った。先生にとって、まぎれもないKの自殺は、殺人の告白と同義だったのだろうか。罪を告白して惨めな醜態を晒しながら生きるのでもなく、開き直ってしまう訳でもない。ただその場から動けなくなってしまって、誰一人とて理解者に恵まれず精神的に孤立する。その後に彼が自殺という選択を選んだのがなんだか意外な気持ちになった。言い忘れたが、自罰を与える先生の姿にも共感するものがあった。ただそれは公としての懲罰ではなく、どちらかというと己への慰めに近い気もした。
 
渡辺華山邯鄲という描かくために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達って聞きました。から見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心のにあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。この手紙があなたの手に落ちるには、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。(p.292 L11)
 
自殺したくても試してみる勇気すら無かった私は、とりあえず自分自身が人生で成し遂げたい事をいくつかリストアップして、それが完了してから実行しようと決意のような意思を固めた時期があった。それこそ、それは、ここでいう「自分自身の要求」なのだろうか。私がそれを果たしたその後、私はどうなるのか。そのままなあなあで生き続けるのか。殉死するのか。はたまた頸動脈を切るのか。と少し考えた。
先生が、Kの自殺からここまでたどり着くまでに、どれだけの恐怖(?苦悩?)があったのだろうか。罪の告白もできず、ただ、自死の道のみ照らされていて、それに反発することも出来ず。何よりも、先生自身が、Kの歩んだ道を歩んでいるのではないかと疑りだしたところが、特に印象的だった。結局は似た者同士で、同じ道しか歩めなかったのか?
未だ、巻末の解説と鑑賞を読んでいないので、この感想は確定ではないが、とりあえず。
 
 

雑記帳(1/2019)

 

sasurainoyama.hatenablog.com

 

もっと、「リアルや自分に対するアウトプット」を増やしたい。他人とかバーチャルじゃなくて。

 

「今日が、地球最後の日だったら何をしますか」という問いに対して特別な何かが思いつかなかった。とりあえず、一人になれる所に行って、ぼーっと景色を眺めていたいなぁとノートに綴っていると、今日がその日なんじゃないかと、一瞬幸せな錯覚を味わえた。

 

それにしても、お絵かき本当に楽しいなぁ。自分の求める表現に近づける度に甘い味わいを噛み締められる。

 

誰もいない世界を一人でただ歩き続ける夢が好きだったのに、最近ではめっきり行けなくなってしまった。

 

カメラで写真を撮る楽しさというのは、自分自身の感性と素直に向き合える所にあると私は思っている。

 

上手くなりたいから、絵の練習も大切なんだけれど、「今ある情熱」をより優先すべきかなと思った。絵の練習はいつでも出来るけれど、今ある情熱は、いつ冷めるかわからないから。

 

時間も経費として計上されるなら、無料と思われがちなSNSもタダではないんだなと。

 

吐瀉している時の無力感、クセになってしまいそうだ

 

眠れない夜に食べる牛丼やカップラーメンが、この世で一番寂しい味がする。

 

自分のワクワクを大切にして生きていきたい

 

自分がつくづく人間であるということを自覚するこの瞬間がとことん嫌いだ。

 

「人生を一刻たりとも無駄にするまい」と考えると疲れるが、「人生に一刻たりとも無駄はあるまい」と思うと少しだけ気が楽になるのかもしれヌ。

 

創ることが、何よりも練習となる。

 

自分が死なないのは、絵を描くため、趣味を楽しむためだから、それ以外何がいるんだろうか。

 

臆病なくせに物見高く、怠け者のくせに欲深く、被害者意識の塊で、そのくせ世の中を我が物顔で歩き回る健康薄鈍だ。(少女椿より)

 

自分にできる事の範囲で生きていこう

 

なるべく、自分に「出来ること・得意なこと・好きなこと」だけに集中して生きていこうと思う。

 

「どんな不幸な人間も結婚して子供作れば幸せになれますよ」なんてほざいている人が居てゾッとしましたワ。

 

人生はゲーム。私というキャラクターを、私がテレビの前に座ってコントローラー握りながら動かしている。そう考えたとしてもクソゲーだよなまったく

 

逃げるのだけは絶対にダメ。やると決めたからには全うする。最後までやり抜く。

 

自分にできっこない、絶対に失敗すると思っていても、実際やってみると案外上手くいったり、予想外の展開になったりするもんだから、とりあえず、まずは1回はやってみようと。やってみて嫌だったら、もう一生やらなくていいから

 

受験の時、そのほとんどが受験票を速達で郵送してきたが、唯一「受験票は自宅で印刷して当日持参してね」というスタイルの所があった。かしこいよなぁ。データだけ用意したら、手紙の印刷代や郵送料をコストカットできる。こういうとこだよなぁ〜感心。

 

カフェで飯食ってんだけど、前の席にスマホいじりながら食ってる人と本読みながら食っている人が居ておもろい

 

特急に1時間ぐらい乗っていたい

 

ダメな日は、無理せず諦めて寝るに限る

 

 

丸亀製麺・噛みしめる麺と人生【ふとした・ダイアリー 第15号】

 

私は、小腹が空くとよく丸亀製麺に行く。麺にはコシがあって食べごたえがあるし、量も多いし、何より美味しい。これらが存分に味わえて、300円もしないのだから。こんなにの幸福をたった300円で感じられるぐらいには、きっと私も幸せ者なのだろうと思いたくなるほどだ。そんな今日もここに来た。

手短に席を決めると、正面のテーブル席で食べている茶髪のお姉さんが、目に手のひらを何度もこすりつけて泣いていた。私は一瞬身構えた気がしたが、すぐにそれは気のせいだとわかった。私は、彼女がなぜ、ああにも人目をはばからずに泣いているのか知りたかった。だが、私はすぐにそれから目を逸らした。私も、極稀にあのような泣き方をする。経験上、大抵それはメンタル的な危険信号であることを理解している。誰一人たりとも、彼女に関わろうとはしない。私もだ。皆、自分の世界で黙々と、注文したうどんを食べている。

お姉さんの隣の席には、スマホを片手でいじりながらうどんを頬張っているサラリーマンが居た。傍から見ると行儀は悪いが、何かと急かされまた、情報が氾濫している現代社会においては、仕方がない風景だと思うし、私もたまにする。

視線を右にずらすと、奥のテーブル席で、ソニーの高級ワイヤレスヘッドホンを付けたサラリーマンが居た。容姿はかっこよかったと思う。私は彼を見て、彼が何を聴いているのか気になった。私は、自意識過剰な性格だからか、外でヘッドフォンを付けるなんて出来ない。私に出来ないことを平然とやってのけている彼に興味を持ったのだ。だが、これらはみんな、私の頭の中の戯言。そうだとわかってはいるが、それでも彼らに興味を持ってしまう性分なのだ。彼らは、今までどういう風に生きてきたのだろうかと。

目と目が合って気まずい雰囲気なるのは嫌だし、それが原因でトラブルになるのも避けたい。そう自分に訳を話して、周囲を見渡すのをやめさせた。私の眼前には、注文したうどんが佇んでいる。いろんな事情を持った人間たちが、この丸亀製麺でうどんを食べている。私もその一人であり、彼ら同様、人間という生命として人生を刻んでいる。